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<title>旅人かへらず</title>
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<description>Recent content on 旅人かへらず</description>
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<title>長距離走、金沢、鉄</title>
<link>https://kubosuke.com/posts/20230921/</link>
<pubDate>Thu, 21 Sep 2023 20:06:20 +0900</pubDate>
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<description>十一月の初めにトレイルランの大会に出場することになった。大学生のころ、筑波山のレースと石岡のレースに出たことがあるので、今回が三回目。三十八キロメートルのコース。ほぼフルマラソンと同等の距離、大人の自由研究スパイスカレー作りに長いこと勤しんでいたせいで、お米をたらふく食べて見事に大きく立派に育ってしまった自分を戒めることが今大会出場の動機。僕を誘ってくれたのは高校時代の旧友、百キロレース完走実績もある底なしの体力をもつ彼女は七十キロのコースに出場するとのこと。一番長いコースは百八キロで、朝の三時からレースが開始するらしい。百八キロというと僕の家から筑波山までの距離。それを標高のアップダウンがある中ぶっとおしで走りつづけるのだから、狂気の沙汰である。
なぜか僕のまわりにはそこそこ長距離ランニング好きな人がいて、時折、長いこと走ることについてあれこれお話しすることがある。彼ら彼女らがランニングを継続している理由はそれぞれで、「サラリーマン生活を続けていると自分が成長できているのか不安に思うときがある。ランニングの大会に出場して結果を定期的にログすることで、自分の立ち位置を知ることができて安心する」「体力を搾りきったあとの白州ハイボールがうまい」「かんがえごとをしたいけれど止まってできないたちなのでしかたなく走っている」「健康診断の肝臓の評価がDだった」など。僕がトレランを始めたのは大学生のときで、色々な山をあれこれ堪能してみたい、しかしお金がすっからかんなのでそう頻繁には行けない、体力はあるから走って解決しよう、という短絡的で浅はかで惨めな動機による。アメリカやヨーロッパの方ではそこそこ前から主流なスポーツではあったらしいけれど、日本はいかんせん人口密度が大きくてせまいのでなかなか流行っていなかった、ただ、僕が大学に入ったあたりから、アウトドアアクティビティをテーマにしたアニメだったり、若い層をターゲットにしたちょっとおしゃれなアウトドアブランドが台頭してきたりと、山、へのインターフェースがぽこぽこ増えていってて、そのひとつがトレランで、その波に乗った一人だったんじゃないかと今になって考える。輸入されたナウいカルチャー、というのも国外かぶれの僕の心をわしづかみにして、気づけば慣性のまま、今では低頻度ではあるけれど、それなりにつづけている次第。部活動で体力を枯渇させる、食べて寝て回復させる、のサイクルが心地よかったことが自分の原体験として強く根ざしていて、いまでもそれを求めて、体力を極限まで枯渇させてくれる装置としてのトレイルランを欲してしまうのだと思う。いずれはサブ3.5を走れるクリント・イーストウッドみたいないい感じのおじいちゃんになって、ゴールで僕を待っている大量のゴールデン・レトリバーのパピーに埋もれて圧死したい。
石川県に旅行に行った。現代美術館、泉鏡花の文学館、輪島の朝市、日本で唯一の砂浜の上を自動車で走行できる道路、片山津の海が見えるモダンな温泉、ぶ厚い地魚を提供してくれる地元の回転寿司などなど。三日という限られた時間の中色々回ることができた。金沢の人たちはあまり笑わない。百戦錬磨の退役軍人のような、激しい大雪、寒い季節を幾度も耐え凌いだ凄みがそこはかとなく漂っている。それとは別に、多くのひとが、美しさ、というものに対してとても強い関心を抱いているようにみえた。金沢の駅、庭園、街路を縫って進む水路を覆う柳、公園のベンチ、地銀の支店、駅ビルのトイレでさえもデザインが凝っていた。豊富な金や農水産資源を土台に、フォッサマグナ辺境という地理的特色ゆえに東西の文化が往来し、余剰リソースを伝統芸能や美術といった文化に投下して栄えていった金沢、人間の主要な経済活動がぎゅっと詰まっている魅力的な場所だ。日本海に面している石川県の北端、輪島の方はもうすこしあっけらかんとしていて、開放的で和やかだった。陽気のいい朝市でいかの魚醤を買ったりめだかや椿が彫ってある漆器を買うなどした。千枚田というオーシャン・ビューの水田を上から眺めながら、炊き立ての粒だったおにぎりを頬張るのはなかなか乙でイけている体験だった。自分へのお土産には珠洲焼きの湯呑みを買った。無骨・実用的・素材勝負のものが好きな自分にピンポイントで噛みつくデザイン。空気供給少なめの窯で焼き上げることで、土が含む酸素を奪って還元し、釉薬を使うことなく黒く引き締まった色合いを出すらしい。谷川俊太郎の三十三の質問の中に、「金・銀・アルミニウムの中でどれが一番好きですか?」という質問があった気がする。無論アルミニウム一択である。よくとれて登山ポールやフライパンにも使えて無骨でかっちょいい。もしこの中に鉄がいれば鉄を選びたいけれど。ドイツのTurkというブランドの鉄フライパンをいつか現地で購入できたらいいなと長いこと望んでいる。</description>
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<title>日記</title>
<link>https://kubosuke.com/posts/20230831/</link>
<pubDate>Thu, 31 Aug 2023 19:34:07 +0900</pubDate>
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<description>いわゆるダイバーシティ豊かな環境に自分をおいてから、己は日本人である、ということを実感する機会が増えた。すべてをあけすけにオープンに語る人たちが僕にせまってくるときの距離感にはいまでもたじろいてしまうし、なにかを不快に感じたときはなるだけ被害が広がらないように黙りこくってそそくさとその場を離れてしまう。感情をあらわにして主張することが苦手だ。お国柄とパーソナリティの境界はぼやけていて、あいまいなものだ。むやみにどちらかの枠にあてはめて取りちがえてはいけない。自分が備えている性質すべてを「日本人らしさ」と主張するのは少しドラスティックだと思う。それでも、他の国からやってきた人たちができることが自分にできないとき、パーソナリティ、というふわふわしたあいまいな何かよりも、明確な差異である各々のバックグラウンドに注目してしまう。ある時同僚から、冗談混じりにお前は自閉症か、と言われたことがある。ここ最近自分が明らかにマイノリティな存在であることを強く自覚していたので、もしかしたらそうなのかもしれない、と秋葉原の自閉症専門クリニックを予約しかけた。後日、それを話すと、おい、言葉通りに受けとるのは傾向の一つだぞ、冗談が冗談にならないからやめろ、ただ何かあったらいつでも助けてやるから声をかけてくれ、と謎のフォローを受けた。はちゃめちゃに殴り合って抱き合うのが愛だと信じて疑わない、ファイト・クラブのような彼らのコミュニケーションには、いまだに慣れない。
大学の頃、同じバスケットボールクラブに所属していた友人が、「僕にはロールモデルや尊敬する人がいたことがない」とこぼしていたのを思いだす。対して僕は末っ子のないものねだりが祟ってか、つねに誰かの魅力的な要素を欲しがっていて、そのどれもを我がものにしたい欲求が内側で大暴れしている。対象は二十数年で出会った人のほぼ全て。それは、大半の生徒がすやすや寝ているのもおかまいなく、おもしろおかしくジョークをこぼしながら自分の好きなことを縦横無尽に雄弁に語る高校の倫理の先生だったり、理性偏重でありながらも自他の感情を蔑ろにしない前職のCTOだったり、新卒ではいった会社の泰然自若な上司だったりする。報道系企業に勤めていたころ、お酒の場で、プロフェッショナルは感情を出さずに黙って合理的に物事を遂行するものだ、と報道記者の上司がネギマを指揮棒のようにふりかざしながら弁をぶち上げていたことを思い出す。感情を閉ざしすぎると人によっては拒絶されていると思われてしまう。どうせ死ぬのだから、動的にパブリックとプライベートの適切な境界をひいて、どの人ともなるべくうまくやっていけたらな、と思う。
海外でお仕事できたらいいな、と思っていろいろ調べてはいるものの、なかなかうまくいかない。そればかりを考えているとどうしても心がずんと沈んでしまうので、適度な負荷をかけつつ焦らず進めてみる。スチュアート・ダイベックの短編を近所の図書館で借りることができた。ひまなときにぼちぼち読む。夏の存在感があるうちにもう少し登山もできたら。</description>
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<title>日記</title>
<link>https://kubosuke.com/posts/20230204/</link>
<pubDate>Sat, 04 Feb 2023 00:24:22 +0900</pubDate>
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<description>ベネズエラ出身の同僚がいる。
金曜の仕事終わり、皆が我先にとTGIFの宵闇へと消えていく中、たわいもないチャットをしたり、プロフ画像がゴリラの自作したボットにしょうもないことを話しかけたりして遊んでいた。
何の文脈かは思い出せない、話のテーマがベネズエラのことに移った。金曜の夜には似つかわしい、きな臭い話だった。
十数年前までは僕の国は世界的な資産家を輩出するような恵まれた国だった、今は極左の社会主義が与党となって腐りきっている、ベネズエラからの国外流出は百数十万人を超えた、僕もそのうちの一人だ、と彼は言った。
チェやカストロは西側諸国ではヒーロー的な存在として美化されている、日本も同じでロマンチックな話を聞くだろう、モーターサイクルダイアリーなんかで披露される冒険譚やバナナ農園の会社をアメリカの搾取から救った革命家として知れ渡っているだろう、全ては嘘だ、彼らは僕らの国に資源欲しさに、主義主張の植え付けがしたいがために僕らの国に侵略をした、結果的にこのざまだ、三十年前にはアフリカの国に軍事介入を行なった、彼らはただのエゴイストだ。
僕は彼から聞いたことをすぐには飲み込めず、それらを適切な距離から観察をするのにいくらかの時間を要した。
情けないことに、チェやカストロについての知識が全くと言っていいほど無い。ほぼ皆無だ。戸井十月さんの「チェ・ゲバラの遥かな旅」をだいぶ昔に読んだことはある。
彼が医学生のときにアルゼンチンやチリをぐるりと旅したシーン、革命の前夜、荒れた海を小舟で潜入するシーン。手汗でよれたページをめくりながらマッチョな男たちの冒険譚として飲み込んで、「カックイイ、なるほどこれ故にあちらこちらで称賛されているのか」と疑うこともなく、コンテンツとして消化した。
もちろん、武勇伝の陰に隠れている、ライトが当たっていない部分、輝かしい面の裏側があるかもしれないことは想像がつく。ただ、僕からワンホップのところで大きく影響を被っている人がいるという事実は生々しく、想像を超えた重みを伴うソリッドなものとして僕を揺さぶる。
ところで日本の文房具は最高だ、この間三千円で購入したPILOTのペンはこの上なく優れている、週末は銀座の伊東屋に出向いて一日を過ごす予定だ、あそこは文房具で有名なんだろう、と彼は言った。
文房具、パソコン仕事をするまではバスケットボールと同じくらい近くにあった存在、いいね、僕は前にそのあたりの会社に勤めていた、そこらへんのことならちょこっと知っている、あそこのレストランは炭火で魚の干物を出してくれるからお勧めだよ、と返しつつ、自分がいかに恵まれているか、比較をしないことには気づけない愚かさを恥じた。
コーディング面接の鍛錬を怠るな、エッジ・カッティングな技術を絶えずキャッチアップせよ、英語と技術力で年収を上げよう、毎朝早く起きて筋トレをしよう。上昇志向のカルチャーが生む快楽を啜ってぼんやり生きている無痛覚な自分。そこに、ついさっき話で聞いただけの、性能の良いらしい、使ったこともないメタリックなフォルムの三千円のペンが、歴史ある仏閣に鎮座する威容を備えた彫像のような気高さを伴って、僕の頭のなかにしばらく居座り続けた。</description>
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<title>日記</title>
<link>https://kubosuke.com/posts/20220327/</link>
<pubDate>Sun, 27 Mar 2022 21:59:48 +0900</pubDate>
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<description>この三日間で、「ある島の可能性」を読み終え、軽井沢で行われた友人の結婚式に出席し、「カラマーゾフの兄弟」を読み始めた。
「ある島の可能性」では、性愛を起点とする種の維持の対抗勢力として勃興した新興宗教エロヒム教がクローン技術によって不死を実現した。軽井沢では、まだ肌寒い初春の陽の下、三角屋根の教会で大学の友人が永遠の愛を誓い合った。「カラマーゾフの兄弟」では、粗野で低俗な父親にネグレクトされた三人兄弟の長男が父殺しを画策し始めたところだ。いろいろな世界が、ある。
「カラマーゾフの兄弟」、作中で、次男のイワンは『人類から不死に対する信仰を根絶してしまえば、たんに愛ばかりか、この世の生活を続けていくためのあらゆる生命力もたちまちのうちに涸れはててしまう』という自説を展開する。対して、エロヒム教は数世代にわたる研究の末にクローン技術によって信仰のコンセプトである不死を実現したが、永遠の生を得た新たな人類、ネオ・ヒューマンは愛の観念を失う。不死の信仰を失えば愛を失う世界と、不死を得ることで愛を失った世界と、不死を得ずとも愛を誓約した友人。
式後の夜は久方ぶりに出会った旧友と軽井沢ビールを片手に、「ごきぶりポーカー」を午前三時までプレイした。差し出したカードの絵柄に関する相手の主張が正しいか正しくないかを当てるゲーム。不死と愛に関する主張の食い違いに頭をひねり、「ハエだよ」と主張したにもかかわらず実際にはゴキブリだのカエルだのを差し出してくるほら吹きの友人たちとの交流を経てもなお、人間不信にならずにいる自分が不思議でならない。
結婚式の前夜、彼女に、これからおめでたいことがあるというのにそんなものを読んでて大丈夫なの、と心配されたけれど、今思えば良いチョイスだったな、と思う。予定調和、世界の摂理、モナドの作用によってたまたま手に取ったこれらの本は、軽井沢の高原で致死量の幸福を浴びせられた僕を図らずも救い出してくれた。これらの物語に触れていなければ、今ごろ標高千メートル氷点下の軽井沢の高原でキメたエクスタシーにのされたのちに、翌朝笑顔でよだれを垂れ流した変死体として発見されていたに違いない。
上モノのクサを吸った、きっと数週間はハイだ。</description>
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<title>日記</title>
<link>https://kubosuke.com/posts/20220324/</link>
<pubDate>Thu, 24 Mar 2022 20:26:18 +0900</pubDate>
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<description>英語だけでコミュニケーションする環境に身を置いて三週間が過ぎた。
誰もが巧みで鮮やかな表現を軽々とこなす中で、僕は、内気な幼児のようなコミュニケーションしか取れずにいる。 会議のたびに、聞き取れなかった、わからなかった表現や単語がブラウザのタブにすし詰めになる。 本当は尋ねたいものの、その尋ねたいことが複雑であるが故に、質問に要求される表現の難易度が上がり、それに物おじして発言の機会を逃すこともしばしば。 言葉一つが制限されるだけで情報伝達の難易度はぐんと上がる。 英語表現力の貧しさの反動か、図作成アプリや例示表現とは今や管鮑之交とも言えるほどに親密になった。
人間が図示や例示といった伝達手段を持っていることに感動を覚え、また、それに甘えてしまう一方で、いやいやお主は英語力の鍛錬のためににこの鬼門をくぐったのだ、真正面にがっぷり向き合わねばならぬ、と力技の自己暗示で自分を鼓舞しつつけている、そして、息も絶え絶え、何とか今日まで生き延びていることに気がつく。
すくなくとも、この三週間で、かっこつけようとする癖を壊せたのは大きな収穫だった。なるだけネイティブに近い発音で表現でなければならない、という暗黙の制約に気がつけたこと、かつそれを緩和することができたのは、周りの同僚の方々が、英語を完全にコミュニケーションの手段として飼い慣らしているさまを目の当たりにしたからに他ならない。
自分の内に潜んでいたネイティブ原理主義を発見できた、たかがそれだけのこと、それによって英語力がこの短期間で上がったかと言われれば全くそんなことはないけれど、このセレンディピティを掴めただけでも及第点としたい。
最近その時々の肯定感や自己愛によって及第点を調節する術を覚えた。かなり生きやすい、便利。二十代半ばの峠をとうに越したくせに今さら何を腑抜けたことをと喝を喰らいそう。しかし事実は事実である。</description>
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